生まれてからずっと、都会で暮らしているわたしは、よく考えれば、'あぜみち' というものを生まれてこのかた、
歩いたことがなかった。
あぜみちをただ歩く。
風は肌に触れて、大きな木の揺さぶりから、目でも風を感じる。次はどんな風が吹くだろうか。
ちょうど良いところで、鳥がさえずる。
ときには、耳の感覚がおかしくなるほどの蛙の合唱。
暗闇の中で見つける蛛のイルミネーションは、都会の明かりの中のイルミネーションより遥かに尊いものだった。
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そんな自然の豊かさは、言うまでもなくそれだけで美しいのだけど、
人間の創ったものが、自然と共鳴してよりお互いを活かし合う、
自然の現象により敏感にさせてくれることがあることを、
あぜみちファッションショーのために友佳が作った環境音楽を、
真夜中に山に囲まれた田んぼの真ん中で聴くなかで思った。

'装い' もそうなれるだろうか。
田園風景の中にある、人間本来の営み、自然と喜びを共有しあう心。
'statement'と題した、結弥さんの詩の心が、
前よりも私の心に寄り添うものになったことは、
忙しい京都滞在の中でのいちばんの収穫だったかもしれない。
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風を詠む
風は路。
それは、水の路。
それは、時の路。
時を詠むとでもいおうか。
わたしたちは、風という時をたゆたう者。
"わたし" をすり抜ける風は、未来からの光のようで、未来からの声のようで、
その軌跡はそよぎ、白い路となり、たゆたっていく。
"わたし"が引きつけられた過去への重力は、風を受けるたびに厚く、すすむほどに重くなって、
けれど、船に帆が張るように、わたしを強くしてくれる。
流るる水は、留まることなく、蛇行しながらも
はだかるものがあれば、そこでじっと待つ。
静かに、耐えること。
いつしか、力と量をたくわえて、越えていけることを知っている。
水もまた、
時を待ち、
時を詠むもの。
わたしは一歩、そしてまた一歩と足を授ける、
この一歩だけが"今"というときだと信じて、
頬をなでる風、目に映るいのち、ひかる碧樹、
世界と共に歩み流れていく。
ふと。
ふと、思う。
私は、この後ろに流れ落ちる路を、この記憶を、いつまで覚えておくのだろうか。
私が強さだと思ってきたこの記憶、
痛みを、よろこびを、惨めさを、慈しみを、権威を、戒めを、うつくしさを、儒さを、いつまで私は繊って歩むのだろうか。
いつの日まで私の軌跡として残していけばいいのだろうか。
立ち止まり、
"ただのわたし"という存在でありたいと願う。
"ただのいのち"でありたいと。
私をすりぬけていく風を、
ただ、感受して。
ああ、感じている時こそが今なのかもしれないね、
と思った。
私が過去だと感じてきたもの、大事に摑んできたものたちが、
そっと、手からすり抜けて、放たれ、
慈しみと感が横たわった。
白龍のように流れて、わたしとともに飛んでいくだろう。
わたしはその風のなかに、たゆたう。
今という時空に
わたしは、たゆたう。

Yuumi Yoshii / Ph:Keitaro Oguro








